アテネ音楽祭から世界歌謡祭
アテネ音楽祭の帰りの飛行機のファーストクラスに、川上源一社長に呼ばれて、
アテネ音楽祭では、予選で2位で、本番で7位になったので、川上社長はご立腹。こんな不公平な音楽祭はないと言われました。
(藤野さん、今年の秋には東京の武道館で、私は、ヤマハ音楽振興会の主催で、世界歌謡祭を開きます)と言われ私は驚きました。
本当に、川上社長の言われたとおりに行われました。
第1回目は、ヘドバとダビデのなおみの夢がグランプリ、毎年、中島みゆきさんから、 世良公則&ツイスト、と毎年ヒット曲が生まれました。
1970年から1989年まで、アジアのユーロビジョン、コンテストと言われ、本当に20年間続きました。
日本の沢山のポップスが生まれ日本のジェイポップの歴史になりました。
川上源一社長は、音楽に対して大きな情熱があり行動力があり素晴らしい方でした。
毎年、ヤマハのリゾート地でもある、野外ステージでポプコンが開かれて、良く呼んで頂きました。
合歓の郷の夢殿のステージ、いろいろな企画の仕事、香港での仕事もさせて頂きました。
でも私は、1973年に病気で倒れて入院しました。
5年間の入院をしましたが、ずっと川上社長からお見舞いのお花が届きました。